明智光秀公と称念寺
- 明智軍記
明智光秀公といえば、天下を取るために手段を選ばなかった織田信長を倒した人物として、有名です。苦しむ民衆を助けるために、巨大な権力に立ち向かう武将。これって、なにか新田義貞公と似ていますね。おなじ清和源氏の名門で、正義感・人情がありすぎて、失敗したという所も一緒です。
さて光秀公は、弘治2年(1556年)に齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子さんや家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に来ます。これは光秀公が幼い時に、母のお牧の方の縁である西福庵に縁があったことによります。西福庵は、称念寺の末寺でした。永禄5(1562)年貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していました。『明智軍記』という書物には、称念寺住職と和歌を詠み、漢詩を作ったことが記載されています。称念寺は時宗という宗派ですから、詩歌に優れた住職が多かったのです。また「遊行」といって全国を旅する布教が特徴なので、光秀公は天下を狙う情報を、この北国街道の称念寺門前でも、住職から十分把握できたわけです。
戦国時代に遊行することは命がけで、後に遊行上人が筒井順慶の領地を遊行する時に、称念寺の住職から明智光秀公に僧が配慮を頼んでいたことが、当時の遊行上人の日記に記載されています。よほど光秀公は、苦難の時代の称念寺の住職の援助が忘れられなかったのでしょう。この日記は、今に称念寺と光秀公の関係が伺われる、一級の資料です。やがて称念寺住職の口ぞえで、朝倉家家臣の黒坂備中守に仕えます。
松尾芭蕉と光秀の夫婦愛
明智光秀公は明智城が滅ぼされた後、越前の称念寺を頼ってきます。称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。しかしやがて、朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを、称念寺の住職が設定します。連歌の会とは、お互いが和歌を詠みあうサロンのような会でありますが、仕官の機会でもあったのです。貧困の光秀公には資金がない中、妻の熈子さんがその資金を黙って用意したのでした。称念寺での連歌の会は、熈子さんの用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀公は朝倉の仕官がかないます。しかしその連歌会の資金は、実は熈子さんが自慢の黒髪を売って、用立てたものでした。光秀公はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのです。
この「夫婦愛の物語」は、称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中に、取材しました。芭蕉が「太平記」や、「時宗」の遊行上人ことに関心を持っていたことは、「金ヶ崎の鐘」や「遊行のお砂持ち」を、詠んでいる事から十分推察できることです。やがて「奥の細道」の紀行が終わった後、門弟の伊勢山田の又玄(ゆうげん)宅に泊まりに行きます。又玄は貧しい御師(おし)で、才能がありながら、出世できないことに悩んでいました。そこで芭蕉は弟子の又玄に、『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』の句を贈って励ましたのです。もちろん「明智の妻の話し」とは、称念寺の光秀公夫婦愛を指します。意味は、「又玄よ、今は出世の芽がでてないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はゆっくり明智の妻の黒髪物語を話してあげよう」とでも訳せましょう。芭蕉の師弟愛が、伺えます。
明智一族の生き方・夫婦愛
- 絵本豊臣勲功記の挿絵
明智光秀公は、主君を裏切った「三日天下」の武将と豊臣の時代に、その評価が作られてしまいました。しかし称念寺門前では、「光秀公の寺子屋」や夫婦愛の「黒髪物語」が伝えられ、優しい気持ちを持っていた武将であったことが今に伝えられています。また光秀公が坂本城主や亀山城主になった時にも、善政をひいて民衆から親しまれたことが今に伝えられています。新田義貞公の評価と一緒で、敗れた武将には、後世の評価に反論する機会がないのです。でも民衆はちゃんと伝承や、いい伝えで真実を伝えるものです。明智光秀夫婦は、武将として立派でありながら、悲運の武将であったことを、芭蕉も「俳諧一葉集」の中の句で残したのでしょう。芭蕉は軍記物語を愛し、とりわけ敗れた悲運の武将に、心を寄せています。
なおその光秀公の夫婦愛を見ながら称念寺で、永禄6年に生まれたお玉(後の細川ガラシャ)も、両親に劣らぬ夫婦愛に生きた方でした。お玉さんの生き方が、天下分け目の関が原の戦いに影響したといわれるぐらいですから、その夫婦愛は母の熈子さん譲りの筋金入りといえましょう。