時宗と一遍上人
- 一遍上人
称念寺は、鎌倉時代の後半に活躍された一遍上人を、開祖とする時宗という宗派に属します。一遍上人は、延応元年(1239)に愛媛県でお生まれになりました。浄土宗を開かれた法然上人の弟子である、証空上人(浄土宗西山派の派祖)の門下で修行された、念仏聖です。文永11年(1274)に熊野権現の夢告を受け、地位や財産などすべてを捨て去り、誰もが念仏一つで救われる浄土の教えを、全国に広めて歩かれました。(こうした布教を遊行といいます)
さらに、人々に念仏の教えを勧めるために、南無阿弥陀仏のお札を配り(この布教を賦算といいます)、踊りながら念仏を勧めて、人々を集めて布教されました。(踊念仏といいます)依りどころとする経典は、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』で、他に善導大師の論書類も大切にいたします。江戸時代まで時宗は「時衆」と呼ばれていましたが、善導大師の書物の中の「道俗時衆等」から来ているように、善導流のお念仏です。
特に上人は、口で「南無阿弥陀仏」(それを名号といいます)と称える、念仏一つで救われるとする教えを説かれました。それを語録では『吹く風、立つ浪の音までも、念仏ならざるはなし』または『称うれば仏も我も、なかりけり』と示され、純粋な念仏を喜ばれ、正応2(1289年)に51歳の生涯を閉じられたのです。純粋であると同時に、すべての神仏を念仏のご縁と、尊ばれたところにも特徴があります。その教えは、後世『一遍上人語録』として編纂され、伝記は『一遍聖絵』十二巻に描かれています。
その遊行の旅に従い、教えを受け継がれたのが、2代目他阿真教上人です。真教上人は、83歳で入滅されるまで、今日の時宗教団の基礎を作り、称念寺も念仏の道場に改められたのです。そして歴代の上人は他阿弥陀仏とよばれ、本山は、神奈川県の清浄光寺(遊行寺と呼ばれています)です。
二代目真教上人と称念寺
- 他阿真教上人像
鎌倉時代に称念寺を念仏の道場とされた方が、時宗の二代目に当たる真教上人です。真教上人は、建治3(1277)年に一遍上人が九州を遊行(布教)していたとき、豊後の国で入門されました。以来一遍上人を補佐し、教団を支え、正応2(1229)年二代目をお継ぎになりました。真教上人は最初に北陸の地を遊行し、そして正応3(1230)年に、越前の長崎の称念寺で念仏を広められました。その後、全国を遊行し、文保3(1319)年に神奈川県の当麻道場で、亡くなられました。真教上人の最大のお働きは、一遍上人が説かれた念仏の教えを伝える時衆(僧侶)と、道場(教団のお寺)を全国に整備されたことです。真教上人は「他阿弥陀仏」と法名を名乗られましたが、この偉業のゆえ、以後の歴代の遊行上人は「他阿弥陀仏」と名乗られることになり、真教上人は特に大上人(おおしょうにん)と呼ばれます。その教えは『他阿上人法語』に編纂され残されています。
また、その伝記は『一遍上人絵詞伝』十巻の中に一遍上人とともに、描かれています。特に正安3(1301)年には敦賀の気比大神宮の参道を、自らもっこを担いで作ったことが有名で(それを遊行のお砂持ちといいます)江戸時代の芭蕉の『奥の細道』にも詠まれ、以後歴代上人が受け継ぐご修行になりました。和歌や調声(ちょうしょう=読経のリーダー役)にも巧みで、病気で倒れられても、文章布教や法話などでご活躍されたお上人です。
真教上人以後の時宗
- 遊行上人坐像絵
真教上人以後の歴代遊行上人は「他阿弥陀仏」と名乗られることになり、いずれの上人も旅から旅へと全国を遊行されました。明治までは、高齢になり病気になった遊行上人は独住(どくじゅう)といって、遊行上人の地位を弟子に譲り、藤沢上人と呼ばれ、本山(清浄光寺)で教団組織の運営や、布教などに当たりました。中世には時宗の僧侶以外にも、遊行の旅を続ける修行僧が多く、一向上人や国阿上人などその多くが、「時衆」と呼ばれる信仰の十二派の連合体に集合されて、江戸時代には「時宗」と呼ばれました。遊行上人は全国を旅し布教することが使命でしたが、七代目の託何(たくが)上人は『器朴論』など多くの教学書を書き、教義を充実させました。さらに時宗の僧は、「陣僧」として武士の戦闘に付き従い、その合間に和歌やお茶などで慰めたことが母体となって、室町時代に「阿弥」と呼ばれた同朋衆として活躍しました。能の観阿弥陀仏・世阿弥陀仏や、絵師の能阿弥陀仏・芸阿弥陀仏、連歌の頓阿などが有名です。能面師では増阿弥陀仏が、生け花では、四条道場の覚阿弥陀仏や立阿弥陀仏が活躍しました。例えば連歌の能阿弥陀仏は、北野連歌会奉行に任ぜられ、後に連歌の七賢に数えられています。やがて江戸時代になると将軍主催の連歌会である柳営連歌に、毎年正月十一日に浅草の日輪寺の住職が、十余人の時衆と伴に連歌会を行うことが恒例になりましたが、阿弥文化の名残でしょう。
江戸時代になると、人々の移動は難しくなりましたが、遊行上人は幕府から大名並みの馬五十匹の徴発権(伝馬朱印と呼ばれます)を与えられ、全国の津々浦々まで念仏のご縁を広げました。一方財産も作らず、旅から旅の布教方法は、念仏の拠点や組織つくりには弱点ともなり、明治には約四百か寺の教団になりました。しかしそれ以降も明治十八年に、遊行六十代の一真上人が遊行・藤沢上人を統一し、管長として現代的な時衆へ再編成を行い、今日の時宗教団を作られました。