福井県史跡 新田義貞公御墓所 称念寺(しょうねんじ)

住所:〒910-0383福井県坂井市丸岡町長崎19-17 電話番号:0776-66-3675
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新田義貞公とは

新田義貞公
新田義貞公

新田義貞公は、1300年(正安2年)群馬県太田市に、新田朝氏の子として生まれました。新田家は八幡太郎に繋がる源氏の名門です。その頃、鎌倉幕府の政治は末期で、民衆は困惑していました。そこで、義貞公は、1333年5月8日に新田荘の生品神社にて、倒幕の兵を挙げたのです。利根川を渡って南下し、5月22日には難攻不落の鎌倉の幕府をわずか15日で、壊滅させました。

 

後醍醐天皇により倒幕の功を認められ、従四位越後守及び上野・播磨両国の介に任命されました。ついで左近衛中将・武者所の頭人になりました。この時の政治を『建武の新政』と言います。

 

しかし足利尊氏が天皇に反旗をひるがえしたために、後醍醐天皇(南朝方)からは足利追討の宣旨を得るにいたります。足利氏も天皇(北朝方)を擁立したため、この時代を『南北朝の動乱の時代』と呼びます。

 

しかし後醍醐天皇を取り巻く公家たちの失政により、南朝方は奮いませんでした。1336年に全国を転戦していた新田義貞は勢力を盛り返すべく、越前に恒良親王・尊良親王を擁護して奮戦します。1338年(延元3年)7月2日灯明寺畷の戦いにおいて、眉間に矢を受け戦死します。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人により、長崎の道場に運ばれ、ねんごろに葬られました。時に39歳でした。主君を失った多くの家来も長崎の道場にて、出家したことが『太平記』に記載されています。明治天皇は、明治15年に「正一位」を追贈しました。

新田義貞公と称念寺

新田公は、1333年5月に新田荘生品神社で兵を挙げて以来、一度も故郷に帰ることなく全国を転戦して1338年に戦死されました。毎日が生死の現実であり、戦乱や病気・けがなどで多くの人々の死とも向かい合う経験をしました。全国の人々が敵味方に分かれて争いあうなど、価値観の混乱した時代でもあったのです。南朝方のリーダーとして、一人の人間としてぶれることなく生き抜いた新田公にとって、その心の支えとなる本当の信仰が根底にあったことは、十分伺えることです。称念寺には託阿上人と言う時宗の高僧が、ちょうど新田公が越前に来られた時に滞在していました。またすべてを捨てて信仰に生きた時宗の坊さんは「陣僧」といって、多くの武士団に従軍僧として身一つで付き添っていました。さらに各地の時宗道場は、念仏信仰の場であり、お茶や連歌などのサロンでもありました。すべてを捨てて命がけで、ただ念仏勧進の遊行上人のお姿は、命を懸けて合戦に散った新田公とあい通じるものがあり、称念寺と言う念仏道場で真剣に、お互いが人生を語ったのでしょう。改めて、義貞公はなぜ、称念寺にご縁を持ったのでしょう?

新田公の偉大さとは?

新田義貞公の生きられた時代は、南北朝の動乱と呼ばれた混乱と無秩序の時代でした。そんな中でも誠意を尽くし、まじめに生きた代表が新田義貞公です。「太平記」と言う書物を見ると、

(1)義貞公の生涯は苦しむ民衆を見て立ち上がり難攻不落の鎌倉幕府を倒し、

(2)その後はぶれることなく一族郎党を率いて、南朝方に尽くした正義の一生でした。

(3)その戦い方は道義を重んじ、忠節を尽くし、姑息な政治手段を使わず、

(4)常に戦闘では真っ先にたち、部下を大切にしました。

(5)しかも民衆をできるだけ巻き添えにしないように、配慮もしました。

(6)足利方とは比較できない小集団でありながら、工夫してその困難さに立ち向かいました。

足利氏は確かに天下が取れましたが、その後は兄弟一族で殺し合いがあり、部下の内紛ありの毎日でした。また室町幕府開設後も、後醍醐天皇や新田義貞公の怨霊におびえる、後ろめたい生涯でした。新田義貞公こそは「日本一の至誠の武将」といえます。

江戸時代の『太平記』と、新田義貞公

徳川家康像
徳川家康像
橘曙覧短冊
橘曙覧短冊

江戸時代は、大名から庶民に至るまで、「太平記読みの時代」と言われるほど、太平記の道徳精神・人生観が参考にされました。つまり南北朝動乱の中で活躍した、新田義貞公や楠正成(まさしげ)が再評価されます。もちろん徳川家が新田氏支流を称することで、『日本(にほん)外史(がいし)』の著者頼(らい)山陽(さんよう)も、新田義貞公の生き方を称賛したことは言うまでもありません。

 

さらに水戸光圀の編纂した『大日本史』を見ると、その意図はなお一層明らかになります。「将軍伝」論賛では、「南北朝の動乱を譎詐(きっさ)・権謀(けんぼう)によって勝利した足利尊氏は、しかし『天下後世を欺く(あざむく)』ことはできなかった。はたして足利氏が十五代でほろんだあと、足利氏に代わって将軍家となった徳川氏は、新田氏の後裔である。」と述べて、南朝方として忠義を尽くした新田公礼賛が、展開されます。

 

さらに、南北朝の動乱の中で奮闘した新田義貞公については、「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」と述べます。つまり足利氏と雄(ゆう)を争って敗れた新田氏は、その忠(ちゅう)貞(てい)(忠節と貞節)ゆえに天祐(てんゆう)(天の助け)を得て、家康の代に幕府を起こすことができたと述べるのです。

 

さらに、この南朝正当論と忠臣思想が、(又は日本外史・大日本史観が)明治維新の基礎イデオロギーに発展していくのです。新田公が活躍する『太平記』が、幕末のリーダーによって読み返され、新たな新田義貞像が出来上がっていきます。(称念寺蔵の、橘曙覧の短歌「外(そと)つ文(ふみ) 朝廷(みかど)おもいにますらをを 励(はげ)ませたりし功績(いさを)おほかり」からも伺えます)現在、徳川系譜は信用に足らないものだと評価されていますが、江戸時代の武士や明治維新のリーダーたちが、この新田公の精神・価値観を学び、新時代の国造りに指針とした事実には変わりないのです。また徳川家の精神的拠り所になった事も、確かなのです。

 

つまり江戸に幕府を開いたい家康公は、新田義貞公がご先祖と言う誇りと、時宗につながるご縁(時宗の僧であった徳阿弥が先祖)の念仏思想があり、五十年ごとに称念寺で行われた徳川幕府の新田公の大法要執行は、その精神の再確認だったのではないでしょうか。

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