新田義貞公とは
- 新田義貞公
新田義貞公は、1300年(正安2年)群馬県太田市に、新田朝氏の子として生まれました。新田家は八幡太郎に繋がる清和源氏の名門です。その頃、鎌倉幕府の政治は末期で、民衆は日々の生活に困惑していました。そこで、義貞公は、1333年(元弘3年)5月8日に新田荘の生品神社にて、倒幕の兵を挙げたのです。利根川を渡って南下し、5月22日には難攻不落の鎌倉の幕府をわずか15日で、壊滅させました。
後醍醐天皇により倒幕の功を認められ、従四位越後守及び上野・播磨両国の介に任命されました。ついで左近衛中将・武者所の頭人になりました。この時の政治を『建武の新政』といいます。
しかし足利尊氏が天皇に反旗をひるがえしたために、後醍醐天皇(南朝方)からは足利追討の宣旨を得るにいたります。足利氏も天皇(北朝方)を擁立したため、この時代を『南北朝の動乱の時代』と呼びます。
しかし後醍醐天皇を取り巻く公家たちの失政により、南朝方は奮いませんでした。1336年(延元元年)に全国を転戦していた新田義貞は勢力を盛り返すべく、越前に恒良親王・尊良親王を擁護して奮戦します。1338年(延元3年)7月2日灯明寺畷の戦いにおいて、眉間に矢を受け戦死します。義貞公の遺骸は葬礼のため時衆の僧(時宗の陣僧)8人により、長崎の道場に運ばれ、ねんごろに葬られました。時に39歳でした。主君を失った多くの家来も長崎の道場にて、出家したことが『太平記』に記載されています。明治天皇は、明治15年に「正一位」を追贈しました。
新田義貞公と称念寺
新田公は、1333年(元弘3年)5月に新田荘生品神社で兵を挙げて以来、一度も故郷に帰ることなく全国を転戦して1338年(延元3年)に戦死されました。毎日が生死の現実であり、戦乱や病気・けがなどで多くの人々の死とも向かい合う経験をしました。全国の人々が敵味方に分かれて争いあうなど、価値観の混乱した時代でもあったのです。南朝方のリーダーとして、一人の人間としてぶれることなく生き抜いた新田公にとって、その心の支えとなる本当の信仰が根底にあったことは、十分伺えることです。称念寺には託何(たくが)上人という時宗の高僧が、ちょうど新田公が越前に来られた時に滞在していました。またすべてを捨てて信仰に生きた時宗の坊さんは「陣僧」といって、多くの武士団に従軍僧として身一つで付き添っていました。さらに各地の時宗道場は、念仏信仰の場であり、お茶や連歌などのサロンでもありました。すべてを捨てて命がけで、ただ念仏勧進の遊行上人のお姿は、命を懸けて合戦に散った新田公とあい通じるものがあり、称念寺という念仏道場で真剣に、お互いが人生を語ったのでしょう。改めて、義貞公はなぜ、称念寺にご縁を持ったのでしょう?
- (1)陣に伴う僧(陣僧)という「時宗」の僧侶が、新田公の周囲に沢山おられた。けが人を助け、戦死したら、念仏十念し、その遺骸を葬り、また菩提を弔うために遺族に伝えることが陣僧の役割でした。そうした陣僧が伝えた情報により、『太平記』などの軍記物語も作られたのです。『太平記』の記述から、伺えます。
- (2)時宗教義の常に臨終と心得て、「南無阿弥陀仏」一つで救われるとする念仏の教えは、新田公のように、戦場で毎日真剣に生ききられた武士には、ピッタリであったのです。『一遍上人語録』等から伺えます。
- (3)遊行上人のように、ぶれることなく念仏一つで布教された生き方は、戦乱の中で価値観がぐらつきやすいリーダーにとって、もっとも参考になる教えであり、生前から交流がありました。歴代の遊行上人や、各道場の時宗の僧の手紙が全国に残っています。
- (4)当時の時宗道場は、無縁(またはアジール)と呼ばれる安全地帯であり、武士は心の平安を求め行き来していました。『太平記』の中に義貞戦死の後に、家来が長崎道場で出家したことが述べてあり、またその時代の手紙等が全国に残っています。
新田公の偉大さとは?
新田義貞公の生きられた時代は、南北朝の動乱と呼ばれた混乱と無秩序の時代でした。そんな中でも誠意を尽くし、まじめに生きた代表が新田義貞公です。「太平記」という書物を見ると、
(1)義貞公の生涯は、苦しむ民衆を見て立ち上がり、難攻不落の鎌倉幕府を倒しました。
(2)その後はぶれることなく一族郎党を率いて、南朝方に尽くした至誠の一生でした。
(3)その戦い方は道義を重んじ、忠節を尽くし、姑息な政治手段を使いませんでした。
(4)常に戦闘では真っ先にたち、部下を大切にしました。
(5)しかも民衆をできるだけ巻き添えにしないように、配慮もしました。
(6)足利方とは比較できない小集団でありながら、工夫してその大きな困難さに立ち向かいました。
足利氏は確かに天下が取れましたが、その後は兄弟一族で殺し合いがあり、部下の内紛ありの毎日でした。また室町幕府開設後も、後醍醐天皇や新田義貞公の怨霊におびえる、後ろめたい生涯でした。新田義貞公こそは「日本一の至誠の武将」といえます。
江戸時代の『太平記』と、新田義貞公
- 徳川家康像
- 橘曙覧短冊
江戸時代は、大名から庶民に至るまで、「太平記読みの時代」といわれるほど、太平記の道徳精神・人生観が参考にされました。つまり南北朝動乱の中で活躍した、新田義貞公や楠正成(まさしげ)が再評価されます。もちろん徳川家が新田氏支流を称することで、『日本外史』の著者頼山陽も、新田義貞公の生き方を称賛したことはいうまでもありません。
そして水戸光圀の編纂した『大日本史』を見ると、その意図はなお一層明らかになります。「将軍伝」論賛では、「南北朝の動乱を譎詐(きっさ)・権謀(けんぼう)によって勝利した足利尊氏は、しかし『天下後世を欺く(あざむく)』ことはできなかった。はたして足利氏が十五代でほろんだあと、足利氏に代わって将軍家となった徳川氏は、新田氏の後裔である。」と述べて、南朝方として忠義を尽くした新田公礼賛が、展開されます。
また、南北朝の動乱の中で奮闘した新田義貞公については、「新田氏の高風・完節に至っては、当時に屈すといえども、よく後世に伸ぶ。天果たして忠賢をたすけざらんや。」と述べます。つまり足利氏と雄(ゆう)を争って敗れた新田氏は、その忠(ちゅう)貞(てい)(忠節と貞節)ゆえに天祐(てんゆう)(天の助け)を得て、家康の代に幕府を起こすことができたと述べるのです。
さらに、この南朝正当論と忠臣思想が、(又は日本外史・大日本史観が)明治維新の基礎イデオロギーに発展していくのです。新田公が活躍する『太平記』が、幕末のリーダーによって読み返され、新たな新田義貞像が出来上がっていきます。(称念寺蔵の、橘曙覧の短歌「外文(そとつふみ) 朝廷(みかど)おもいにますらをを 励(はげ)ませたりし功績(いさを)おほかり」からも伺えます)現在、徳川系譜は信用に足らないものだと評価されていますが、江戸時代の武士や明治維新のリーダーたちが、この新田公の精神・価値観を学び、新時代の国造りに指針とした事実には変わりないのです。また新田公が徳川家の精神的拠り所になった事も、確かなのです。
つまり江戸に幕府を開いたい家康公は、新田義貞公がご先祖という誇りと、時宗につながるご縁(時宗の僧であった徳阿弥が先祖)の念仏思想があり、五十年ごとに称念寺で行われた徳川幕府の新田公の大法要執行は、その精神の再確認だったのではないでしょうか。