福井県史跡 新田義貞公御墓所 称念寺(しょうねんじ)

住所:〒910-0383福井県坂井市丸岡町長崎19-17 電話番号:0776-66-3675
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称念寺の歴史

はじまり  (長崎はむかし湖だった?)

長崎、舟寄の地名はその昔湖があったことに由来していると言われています。
漁に使われたおもり

称念寺は長崎道場と呼ばれ、一遍上人という鎌倉時代のお坊さんが開いた時宗の寺です。

しかし、称念寺に伝わる縁起(歴史を書き記したもの)によれば、古くから長崎の地にあったことがうかがわれます。縁起によれば当地長崎が湖のほとりにあったころ白山権現がこの地に渡来した際、着岸した旧跡であったといいます。また泰澄大師というお坊さんがこの地を訪れ、養老5年(721)元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建したと記録してあります。つまり、称念寺が白山信仰ととても関係が深かったことがうかがえます。古い時代より、人々は高い山や大きな川などに神が宿っていると信じていました。越前地方では白山が代表的で、鎌倉時代に念仏信仰が広がる大きな下地になりました。長崎、舟寄の地名はこの湖の伝説と関係します。
また、漁に使うおもりが近くの畑から出土し、大きな川や湖が存在したことが想像できます。また縄文時代の遺跡が見つかり、そこで漁をしたことが伺えます。江戸時代の記録を見ると、福井のお殿様が「泰澄大師舟つなぎの松」と言うのを見にこられたことが記載されています。残念ながら、今は残っていません。

鎌倉時代の称念寺  (寺が舟の会社をやっていた?)

「遊行上人縁起絵巻断簡模写」
正応3年(1290)他阿上人の越前布教の様子が描かれている絵巻の断簡。

その後鎌倉時代まで歴史は明らかではありませんが正応3年(1290)時宗(一遍上入が開く)の二代目の他阿(真教)上人が越前地方を遊行(おしえをひろめる旅をすること)のさい、当地の称念房が他阿上入をしたって建物を寄進したといいます。末の弟道性房は光明院という倉を寄進し、弟の仏眼房は私財一切を寄進したと伝えられています。

この時代に三国は日本海側で最も栄えた港でした。坂井平野でとれたお米や産物は九頭竜川や竹田川から舟で三国港へと運ばれました。そして長崎の庄には兵庫川があり、やはり舟が使われ運ばれたのです。時宗のお坊さんはこうした港などで布教したため、日本海側の各地に時宗の念仏道場が建てられたようです。越前地方で最も有力な道場になった称念寺もそのため、三国や富山県、新潟県にまでその勢力を伸ばしていたことが当時の大乗院文書からうかがえます。つまり称念寺の経済は海運業にたずさわる人によって支えられてきました。同時に光明院の倉というのは、今の総合商社の役割を果たしていました。
遊行二代目真教上人は北陸と関東を中心に布教したため、長崎道場は北陸では一番の念仏道場になりました。またその末寺も、県下各地に建てられました。

南北朝時代と新田義貞  (日本中をかけめぐった武将たち)

鎌倉幕府を滅ぼした武士「新田義貞」

鎌倉幕府も北条高時の頃になると、世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れました。その代表的な武士たちが足利尊氏や新田義貞、楠木正成です。そして鎌倉幕府を滅ぼした武士が新田義貞です。ところが足利と新田は争いとなり、南朝と北朝に別れ日本中を巻き込んだ戦乱の世になりました。ここ越前地方もそうした戦乱の舞台になりました。新田義貞は群馬県で生まれ、反幕府方として鎌倉を攻略し、つい で南朝方のリーダーとして京都や兵庫県で戦いましたが暦応元年(1338)に灯明寺畷の戦いで戦死しました。戦乱の中で味方を裏切ったり、兄弟で争ったりした時代に、新田一族は最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた武士でした。新田義貞は称念寺の住職と、古くより交友を深めていたので、その遺骸は時宗のお坊さん8人にかつがれて、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞の菩提寺として知られるようになりました。

敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、将軍家祈祷所として栄えました。

こうして称念寺は寛正6年(1465)にさらに後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け祈願所となり、その後、後奈良天皇の頃には住職が上人号を勅許されるなど着々と寺格を高めていきました。

戦国時代と称念寺  (寺も引っ越しした戦乱の時代)

禁  制
天正元年(1573)織田信長が朝倉攻めに際し、称念寺に与えた強奪、暴行、放火等を禁じる禁制。

時代が戦乱の時代になると、称念寺もその中に巻き込まれました。それに対し朝倉、柴田、織田、豊臣、丹羽氏などの諸侯は禁制(してはならないことを記した物)を称念寺に出して、保護を加えています。しかし、文明5年(1473)には朝倉敏景の勧告により長崎の北陸街道沿いから金津の東山へお墓を除き、寺ごと移転しています。それでもたびたび一向一揆などに巻き込まれたようで、天正2年には越前の一向一揆の大将七里三河守が称念寺を陣としたことが記録されています。

永禄5年(1562)には浪人中の明智光秀が称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建て生活していました。この話は有名で、江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪れその頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄せむ』と俳句に詠んでいます。明智光秀は称念寺の末寺であった、西福庵の庵主のご縁で称念寺に身を寄せました。夫婦の生活は貧しくとも、住職と連歌や漢詩を詠んで、後の細川ガラシヤもこの地で誕生したようです。

江戸時代と称念寺  (徳川の先祖は新田義貞?)

「新田義貞公墓所墓石」
天保8年(1837)新田義貞公500回忌に福井藩主松平宗矩が建立した高さ2.6m余りの五輪石塔。

徳川の時代になると戦乱もおさまり、徳川の先祖は新田義貞ということで、称念寺を大切に保護しました。元文2年(1737)には新田義貞の400回忌を行い、幕府は白銀100枚を寄進したことが『徳川実記』という記録に残されています。続いて天明8年(1787)には450回忌を、天保8年(1837)には500回忌の法要が行われたことが記録されています。安永4年(1775)には30の建物がありました。

徳川家が新田義貞の末裔であると言うのは、徳川の元祖の次郎義季が末になる世良田親季親子が、足利方の追っ手を逃れるため、遊行十六代南要上人の下で時宗になり、流浪して三河松平家の養子に入ったと言う、伝えから来るものです。また、称念寺を新田の菩提所と認定するに当たり、全国の伝承のある墓所をすべて掘り起こし、称念寺以外からなにも出てこなかった事を確かめて、法要を行いました。

明治以降の称念寺  (時代から忘れ去られた称念寺)

「落成式」 大正13年4月

しかし明治の版籍奉還により、無檀家無俸禄になり、経済的にピンチにおちいりやがて称念寺には住む人もなくなりました。境内は畑になり、仏像や寺宝も売り払われました。しかし、新田義貞をしのぶファンや称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせ、大正13年(1924)にようやく再建しました。

この再建に身命をささげたのが、広島県尾道の海徳寺住職高尾察玄師です。察玄師は大正3年4月に入寺し、困難を乗り越えて再建をはたし、昭和12年に新田公600回忌法要を執り行いました。察玄師は昭和19年には次期の遊行上人に推されて、甲府の一連寺住職になりました。明治時代には新田公のお墓も、他に身売りされそうになりましたが、察玄師により見事に修復され、さらに散逸していた寺宝も買い戻すことができました。

戦後の称念寺  (何度もよみがえる称念寺)

現在の称念寺

ところが、昭和23年6月28日にこの地方を襲った福井大地震により再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。檀家がないため一時は存続すら危ぶまれましたが多くの人々の協力により、今日までかかりようやく復興ができたのが現在の称念寺です。そのため規模や様子は大きく変わりましたが、新田義貞の菩提寺として訪れる人の多い寺として現在にいたっています。

この再建に身命を奉げたのが察玄師の弟子の高尾察良師です。戦後の混乱や震災で壊滅的になった称念寺の再建に生涯を賭け、昭和52年に新田公640年忌法要と落慶法要を行いました。続いて昭和62年には650年忌法要を、地域上げての法要として実施しました。以後毎年の新田公法要と10年ごとの大法要を、地域の人々と伴に行ってきました。

平成19年に新田公670回忌を、地域の奉賛会の人々と高尾察誠が実施し、さらに毎年の法要を行って、新田公の慶賛に努めています。


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