福井県史跡 新田義貞公御墓所 称念寺(しょうねんじ)

住所:〒910-0383福井県坂井市丸岡町長崎19-17 電話番号:0776-66-3675
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称念寺住職法話

称念寺住職の法話1

明智光秀公と妻熙子さんの夢

まず明智光秀公ですが、土岐(とき)源氏の名門として、享禄(きょうろく)元年(1528)美濃の国(岐阜県)に生まれました。弘治二年(1556)に齋藤義龍(よしたつ)に明智城を攻められ落城しますが、明智城を再興せよとの叔父の光安(みつやす)の命に従って、家族で白鳥から大野の油坂峠を越えて越前の称念寺に落ち延びます。

光秀公は、生活のために称念寺門前で寺子屋を開き、夫婦力を合わせて天下取りを夢見たのです。しかし浪人中で収入もない中、実際は貧窮の生活であったことが想像できます。やがて朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを、称念寺の住職が設定します。貧困の光秀公に資金がない中、連歌の会は熈子さんの用意した酒肴で大成功に終わり、ようやく光秀公は朝倉への仕官がかないます。ところが、その連歌会の資金は、実は熈子さんが自慢の黒髪を黙って売って用立てたものでした。光秀公はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると誓ったのです。熙子さんの行為は、頼まれたからの自己犠牲ではありません。

光秀公・熙子さんの夢は、土岐源氏一門として足利義昭の室町幕府再興でした。清和源氏の名門足利氏の幕府を再興し、戦乱で一族や民衆が苦しむのを止めたいという大きい夢です。しかし足利氏に天下を収める力は既にありません。武士として次に考えることは、足利氏に変わり天下を治めるリーダーに付くことです。そこで織田信長につきますが、信長も荒木村重の虐殺のように天下を取る器量に欠けていると判断しました。そこで次には、自分が天下人に就いたのです。準備不足で、短い天下人でした。でも本能寺の戦い・山崎の合戦は、光秀公に土岐源氏末裔として悔いはなかったはずです。江戸時代末までは、光秀公は、武士として当然のことをしたという価値観でした。したがって新田源氏の末裔を名乗る徳川家は、土岐明智氏末裔を、上野国(こうずけのくに)沼田藩主として復活させているのです。重臣である斉藤利三の娘のお福は、春日局(かすがのつぼね)として徳川家を支えます。

つまり光秀公・熙子さんの夢は、山崎の合戦ではかないませんでしたが、世の中を平和に導こうとした夢は、江戸時代になって実現したのです。大河の一滴だったかもしれませんが、お二人の夢は、確かに実現したのです。自分ができなかったのは、時の運とでもいえましょう。でも天に恥ずかしくない行動をとれたならそれでいいのです。光秀公・熙子さんの今の夢・生き方の中身が大切なのです。 松尾芭蕉もこの二人の夢に感動し黒髪の句を作ったのです。

住職  高尾察誠

称念寺住職の法話2

山門
山門

明治以降の日本は富国強兵へと進み、戦後は高度経済成長を目指してきました。自分たちに物があふれ、お金持ちになれば、幸せになっていくと考えられて、がんばってきました。しかし一旦、経済の成長が落ち込み、成長のひずみや不幸な事件が起きる事に、多くの人が成長に乗り切れない閉塞感を味わっているのではないでしょうか?伝えられてきたものを大切にし、その中で充実感を味わうことを、多くの人が忘れてきているように思います。余分なものを捨て切って生き抜いた一遍上人や、新田義貞公の生き方は、すがすがしく見えます。こんな立派な生き方は、なかなか真似ができませんが、少しでも参考にしたいものです。

 

仏教では「生死一如」といって、色々な価値観・雑音に迷わされることなく、ただ今を真剣に生きよと述べます。真剣に生き方を伝えながら、人々に優しく生きた新田義貞公(天竜川の船橋の例えや、部下の青麦刈りの件等)。すべてを念仏の教えに集約しながら、各地の神社仏閣の神仏とも交流を図った一遍上人。ともに、優しさや身軽さを忘れていません。しかも、驚くほど困難にぶつかっても、ぶれていませんね。偉大な人ほど、こだわらない大きな心を持てるのでしょうか?お二人の生き方の魅力は尽きません。一度皆様も、お二人の生き方を尋ねてみませんか。

住職  高尾察誠

称念寺住職の法話3

車を運転して駐車場に入れようとした時、電車に乗って座席に座ろうとした時に、最近は自分さえよければという人を見かけませんか?また公共施設を皆のためにきれいに使おう、というマナーも薄くなったと思いませんか?テレビを見ても、お金や権力にまつわる眉をひそめるニュースが絶えません。今も、南北朝時代の680年前と余り変わらない、価値観の混乱やエゴイズムが氾濫しているように思えます。新田義貞公はそうした時代に、ぶれることなく誠実に生き抜かれました。足利氏との戦いに裏切られ、負けて続けて戦死されましたが、この長崎称念寺で周囲の方々に尊敬され、厚く今日まで敬われてきました。新田公の権力や財力よりも、大切なものを見失わなかった誠実な生き方に、崇敬の念が続いてきたからでしょう。

こんな現代だからこそ、この日本一の至誠の武将、新田義貞公の生涯を、もう一度振り返ってみるべきではないでしょうか。 

住職  高尾察誠

称念寺住職の法話4

忠雀門
中雀門

昔はよく「周りは見ていなくても、お天とう様が見ている」と、年配者がいっていました。だれも見ていなければ、ゴミくらい周辺に捨ててもいいやという風潮の今とは、えらい違いですね。また、今は自己実現こそが大切だとか、今の評価・充実感こそが一番だ、とかの意見も目につきます。やはり昔の「周囲が認めてくれなくても、天下の神仏がちゃんと評価して下さる」は、死語になってしまいました。困難な中で大きな権力に立ち向かった新田義貞公や、明智光秀公は、どういう気持ちで戦い続けてきたのでしょうか?コツコツと、皆のために地道に努力するは、時代遅れなのでしょうか?お二人とも、成功者でもなく、むしろ悲運の武将でした。しかし今日に至ってみると、不思議にも680年を過ぎても新田公は地域の民衆に暖かく慕われています。よほどじかに接した人たちには、よい思い出を残したのでしょう。今、芽が出なくても、今スポットライトが当たらなくても、ごまかさず・くさらず・あきらめず・皆のために努力した新田義貞公と明智光秀公!こんな生き方も、とても魅力を感じる今日この頃です。隠匿(いんとく)は、死語にしてはいけませんね。至誠(しせい)も、死語にしてはいけませんよね。こんな人物こそが、新田義貞公・明智光秀公です。一度皆様も、お二人の生き方を尋ねてみませんか?

住職  高尾察誠

称念寺住職の法話5

空也上人 ―捨ててこその実践と生涯― 

平安時代には、修行者の為だけのお寺や、お金持ちの貴族が個人で作ったお堂の中でしか、お念仏の教えが実践されていません。また、その念仏は、精神を集中させる修行や沢山の供養を求めるなど、難解な教義・修行方法も伴っていました。そんな中で、誰でもが実践できる、口で唱えるだけの念仏(口称(くしょう))の教えを、庶民が暮らす市中に広めたのが空也(くうや)上人(しょうにん)です。その生き方に感動されたのが、鎌倉時代の後期に時宗(じしゅう)というお念仏の宗派を開いた一遍(いっぺん)上人(しょうにん)です。一遍上人は、空也上人を仏法の一番の先輩と述べ、空也上人の法語を大切に持ち歩き人々に伝えました。そして、その教えは、一遍上人の語録の各所や、生涯を描いた一遍聖絵という絵巻の中に残されています。

空也上人は、平安時代【延喜三(九〇三)年~天禄元(九七二)年】に活躍した聖です。一説には、皇族の出だともいわれていますが、自身は、出身や家族のことに生涯触れられません。特に天慶(てんぎょう)元(九三八)年に京の町中を乞食(こつじき)し、困っている人々に食べ物を分け、「市(いちの)聖(ひじり)」と呼ばれました。また、疫病が流行すると、鉦(かね)を叩きながら「南無阿弥陀仏」と称え、ある時には踊り念仏を勧め、「阿弥陀(あみだの)聖(ひじり)」とも呼ばれました。

『一遍聖絵』巻四の十六には、踊り念仏について、「そもそも踊念仏は、空也上人が京都の市屋或いは四条の辻でお始めになりました」と、添え書きがあります。さらに続けて、空也上人の法語が述べられます。「空也上人のお言葉に、『心に執着がないから日が暮れればとまり、身には住むべき所がないから夜が明ければ立去ります。耐え忍ぶ衣(心)が厚いから杖や木で叩かれても石や瓦を投げられても痛くありません。慈悲の室(思い)が深いので悪口も聞こえてきません。口に任(まか)せて唱える念仏三昧(さんまい)ですから市中がそのまま道場です。念仏の声に従って佛を見るので出で入る息がそのまま念(ねん)珠(じゅ)(つながっている)です。夜々佛のお迎えを待ち、朝々最後の近づくのを喜びとします。身と口と心の三つ働きを全て天運に任せ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の振舞いは、あげて仏道のために捧げるのです』これは聖(一遍上人の事)が常に持っておられた文であるから載せるのである」とあります。

鎌倉時代の『方丈記(ほうじょうき)』の作者鴨長明(かものちょうめい)は、『発心集(ほっしんしゅう)』の中で、空也上人を「わが国の念仏の祖師と申すべし。すなわち、法華経と念仏とを置いて極楽の業(わざ)として、往生を遂げ給えるよし、⋯」と称賛しました。

令和二年は、コロナウイルス感染が拡大し、多くの方が不安に怯(おび)えました。企業の人たちもコロナ不況にあえいでいます。ウイルスの流行下では、罹患(りかん)した方を地域から排除しようとし、医療・福祉従事者やトラックの運転手さんの家族を差別したりなど、人間の醜さも報道されました。多くの方が病に怯え、不安を持ち、孤独になり、人の心を傷つけたり傷つけられたりして苦しまれたのです。

文明が進歩しても解決できない心の問題が問われました。平安・鎌倉時代には、人々がもっと大きな不安に陥(おちい)ったでしょう。空也上人は、平安時代に活躍した阿弥陀の聖ですが、当時流行した病に苦しむ人々のために寄り添って活動した念仏者です。同じく一遍上人も、鎌倉時代に病や飢饉に苦しむ目の前の民衆の為に活動した念仏者です。念仏でウイルスが消えるのではありません。念仏を称えると、阿弥陀様に支えられているという安心の元、病の流行に振り回されない・影響されない・異質なもの(罹患者等)を差別しない勇気・心構えが仏さまの方より授かるのです。

こうした時代だからこそ、融通無碍に生きた空也・一遍上人の教えは(捨ててこその生き方)ヒントになると思うのです。仏さまの教え・念仏の智慧をいっぱい頂くためには、自身の心のいらないものをまず捨てる事から始めよと教えるのです。

こんな現代だからこそ、この日本一の至誠の武将、新田義貞公の生涯を、もう一度振り返ってみるべきではないでしょうか。 

住職  高尾察誠

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